哲学って? - Philosophy in Japan

 哲学というものに初めて興味を示したのは、大学の選択を迫られた高校2年の時だった。「独りで本で学べるだろう。社会では役に立たん」とある先生の言葉。一理あるかなとも思い、そこで私の思いつきのような願望は葬られた。
 そのせいだろうか。大学で、哲学科の学生を、周囲同様、違う目で見ている自分がいた。「どうして、哲学を専門にしているのだろう。」「どうしてそんな"変わったもの"を勉強しているのだろう。」しかし、それは全く違った。
 『ソフィーの世界』の世界的ヒットはまだ記憶に新しい。この本で初めて、哲学に触れたという人もいるだろう。小学生に語るように書かれたこの本は、哲学ビギナーの日本人には好都合だったと思う。横文字で偉人の名が出る度、恐縮してなかなか内容が呑み込めなかったりはするが、偉人達が説いている理論は実は、私達が日常考えたどり着いた答えに近いものであったりする。結局、それが、哲学。時代に左右される"言葉"に飾られ、一見流動的だが、それはまさに普遍的。
 内面の危機を声枯らしなお叫び続けている現代、幼い頃から哲学に触れてみてはどうかと思う。悩みにぶつかり苦しむ自分が、古代の偉人に重なること。また、それが同じ悩みであること。それを知ってみる価値はないのだろうか。自分の悩みに気づくことすら避けて済ます若者に、内面に目をやることを思い出せる。そして、その先に導くために。
 留学中、よく、どうして日本では哲学の授業がないのか、と尋ねられた。一番大切な学問だと言い切る友もいた。ノルウェーでは、幼い頃から哲学に親しみ、大学1・2年では必修だそうだ。フランスでは、高校卒業試験(バカロレア)の際には、与えられた問題に哲学者気取りで、問題提起、賛成・反対意見、自ら導いた結論、新しい問題の提起というように、論じなければならない。暗記学力ではどうにもならないことがここにある。
 ヨーロッパでは、数年前から、仏教が徐々にしかし確実に広がりつつある。そこではよく、「仏教は宗教ではない。哲学。」と言い、仏教への感銘を示す。確かにそうである。しかし、残念ながら私達日本人は、宗教と名の付くものには少なからずアレルギーを示す。故にか、神・仏共に、冠婚葬祭にはお世話になるが、どこか遠いものにしてしまっている。
 西洋の哲学がだめなら、せめて東洋の哲学を学び、俗にいう真理に触れてみたら。軽率な意見だろうか。道徳の授業があるとしても、学ぶのは社会通念、他との協調性を重んじること、そう、日本社会の、小さなコミューンの常識。問題提起と、批判しかしないことは違う。他を尊重することと、ただ同調することも違う。個を大切にする教育を掲げたところで、結局は教育しやすいよう他への同調を求めるか、個を野放ししすぎて、子どもの権利を通すだけで終わる。話が脱線するが、いくら子どもでも、権利の主張には義務が付随することを知ってもよいと思う。
 人類の永遠の疑問を追求しているのが、哲学。これを白い目で見て触れもしないのは残念なこと。難しい専門用語の羅列では、学ぶ気すら失せてしまうだろう。しかし、この学問に子どもの時から親しむことは人間の幅を広げるのにきっと役立つと、私は信じる。面倒臭い学問であるかもしれないが、教壇に立つ者にとっても、これは面白いことだと思う。どうして、という子どもの問いに答えるのは教育者の楽しみなのでは…..。





悩める天使

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それは

天使の姿を借りた私達
  1997年

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